「日吉君、ご苦労様。朝早くからすまなかったね」
「いえ。お疲れ様っした」
「うん、おつかれ」

 裏口で店長に挨拶をしたあと、細い道を通り、住宅街へと抜け出た。
 都内といえども、やはり昼間の住宅街はひっそりとしている。
 夜になれば、それはお世辞にも好ましいとは言えない道に変貌するだろう。
 だが……そういう道が好きなヤツもいる。
 派手な電飾などで輝いている所より。
 人通りが多くて賑わっている所より。
 こういう所の方が、よっぽど落ち着く。
 やましいことをしているから表を歩けない、という意味じゃない。
 単に静かだから落ち着く、というわけでもない。
 当然、足の先に自分の寝床があるからというのも、落ち着く理由の一つだろうが……。
 ただ漠然と、落ち着く。

 歩く先には、築七年のアパート。
 今年の春から、オレの家となった建物がある。

 五分ほど歩いただろうか。
『PIRIRIRIRIRIRI!』
 突然、ポケットの中で携帯が振動し、けたたましい音を立てた。
 ディスプレイを見ると、ノノギ、と書いてある。
「……もしもし?」
「おはようございます楓さん。今、どのへんにいますか?」
「例の朝バイトが終わったところ。ワリィけど大学休むわ。寝直す」
「あら。今日提出のレポートはどうしますの? 出さないと単位落ちますわよ」
「あー……あれ今日なのかよ、マズったな……」
「私も今、大学に行く途中なんです。行く気があるならアパート前で拾って差し上げますけど?」
「ん〜……じゃ、よろしく頼むわ」
   :
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 数十分後。
 オレ達の姿は大学の廊下にあった。
「野乃木もこれから書くんだろ、レポート」
「ええ。今まで書いている時間がとれなかったものですから」
 横を向いてみると、フレームレスの眼鏡に、独特のつり目。
 いや、猫目と言った方がいいだろうか。
 髪を片側で纏め、抜け目のない笑顔をこっちに向けている。
 野乃木 星歌(ノノギ セイカ)。一応年上だが、学年は同じだ。
 桜子とは昔からの知り合いらしいが、いつも言い争いをしているところから、あまり仲は良くないらしい。
 今やっているパチンコ屋の仕事──バイトを紹介してくれたヤツだ。
 オレは妙に気に入られているのか、それともアシスタントとして使い勝手が良いのか……。
 いつの間にか、頻繁に連絡を取り合うことが多くなった。
 さしずめ悪友と言ったところだろうか。
 当然、他愛ない話も弾む。
「ところで……アルバイトの方はどうですか? あのパチンコ屋」
「思っていたよりも全然ヤクザな感じがしないんだな。店長も良い人だし」
「パチンコ店全てが、裏業界と繋がってるわけではありませんわ」
「とにかく今回は当たりだったぞ。アパートも悪くない」
「なら少しは感謝していただかないと。住み込みアルバイトなんて、今時そうそうないんですからね」
「サンキュ。お礼は今度、身体で返すってことで」
「それは謹んで辞退申し上げます。でも……なんで桜子さんの家を出たんですか?」
「純粋な独立心ってところだ。実の親だったとしても、いつまでも
世話になってるわけにはいかないだろ?」
「あら。てっきり私、姉妹で二股をかけて追い出されたのかと思いましたわ。
確か桜子さんには妹さんがいましたわよね?」
「若葉か……あいつとは長い付き合いだからな。文字通り、妹みたいなもんだ」
「さぁ、どうでしょうね?」
「なんだそれ」
「だって血は繋がっていないと、お互いに知っているのでしょう?
義理の妹なんて、男性が喜びそうなシチュエーションじゃないですか」
「血筋より大切な絆なら、あるかもな」
「やはり、そういうことでしたのね」
「……なんか勘違いしてるだろ、野乃木」
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   :
   :
「さて、私はちょっと教授に根回しをしてきます。
レポート提出は本日17時必着。忘れたら留年確定ですからね」
「ん、了解」
「それではまた」
 野乃木が歩いていくのを適当に見送ってから、自動販売機にコインを入れる。
 続いてボタンを押すと、コーヒーが流れ落ちてくる音。
 次の講義をフル活用すれば、レポート自体はあっさり終わるだろう。
 しかし……頭の片隅には、それよりも重要な事柄が渦巻いていた。
「(妹……血筋より大切な絆、か……)」
 さっき、野乃木との話に出てきたこと。
 妹──血より大切な絆。
「(オレのもう一人の妹は……どうしてるんだろうな)」
 紙コップを口に付けながら考えてみる。
「(淳……お前は元気にしてるか?)」
 当然、答えは返ってこない。
 口の中に苦い味が広がるだけだった。


 生き別れた妹に、いつか会いに行こうと決めて、十五年。
 オレは未だに、淳に会うことが出来ないでいる。